2010-09-27

後期開講日

今日から後期の講義が開講。いきなり3コマ連続でしゃべりつづけて疲労困憊。とくに3限は英語での講義ということで、事前準備が日本語の場合の比ではないので(これは私の英語力の問題ですが・・)、今学期は月曜日が大きなヤマになりそうです。

あまり更新できませんでしたが、今年の夏は、前任校での集中講義、LAでの資料収集、そして論文の執筆とあいかわらずバタバタしているあいだに終わってしまいました。誤算は、9月はじめに購入したiMacが初期不良で結局注文してからまともに使えるようになるまで2週間以上かかってしまったこと。9月は新しい27インチ大画面のiMac(Core i5)でバリバリと論文を書くはずだったのですが・・・。ちなみに初期不良の内容は、冷却ファンが終始高回転を続けるというものでした。結局、新品と交換になり、交換品のほうは、ちゃんと静かに動いています。これから4年間活躍したiMac(20インチ、Core 2 Duo)の売却先を検討しなくては。

というわけで、新学期も落ち着かないスタートとなりました。新学期は始まってしまったのに、締切間近の論文が複数あるという、かなり厳しい状況ではありますが、なんとか乗り越えていきたいものです。


2010-09-13

「『市民』の境界、シヴィックな越境」

『アメリカ史研究』第33号に、拙稿「『市民』の境界、シヴィックな越境:排日運動期の日系移民とシヴィック・リアリズム」が掲載されました。特集企画「アメリカにおける『市民』の境界:包摂と排除」のなかの1本として、昨年のアメリカ史学会のシンポジウムで発表した内容をもとにまとめました。

少しこの論文の背景を説明しておくと、拙著『「日系アメリカ人」の歴史社会学』について歴史学系の方々からコメントをいただいたとき、Gary Gerstleのcivic nationalism論をあまりに無批判に受け入れているのではないか、という点を指摘されました。たしかに自分の理論枠組を構築する際に、Gerstleのnationalism論に依拠していた部分もあるため、至極もっともな指摘であったと思います。ただ、そのとき、社会史系の研究者のあいだでは「常識化」しているといっていい「国民化」批判やナショナリズム批判から抜け落ちてしまうものもあるのではとも感じました。そこで、この論文では、あえてアメリカのcivic nationalismに積極的にコミットした日系移民指導者の姿を通して、それを否定するのではなく、civicな理念が有するダイナミズムのほうに目を向け、その歴史的意味をちゃんと論じてみようと考えました。結局「国民化」してしまいました、という話ではなく、その「国民化」のプロセスになかに、それ自体を乗り越えるような可能性を見いだすこと、そして、その可能性がなぜ実現しなかったのかを考えること、そうした方向性のほうに、私としては魅力を感じたわけです。そのようなねらいが、この論文のなかで十分に発揮できているかは自信がありませんが・・・。

この論文は、私にとって『アメリカ史研究』では二本目の論文になります。前回、歴史学的な記述との違いに悪戦苦闘したということもあり、今回はリベンジのつもりで再トライしました。自分ではけっこう歴史学っぽいものになったかなと思っていましたが、先日、某氏に「やっぱり社会学の方って感じの論文ですよね」と言われてしまいました。ディシプリンの壁はなかなか厚く、高いようです。