2010-09-13

「『市民』の境界、シヴィックな越境」

『アメリカ史研究』第33号に、拙稿「『市民』の境界、シヴィックな越境:排日運動期の日系移民とシヴィック・リアリズム」が掲載されました。特集企画「アメリカにおける『市民』の境界:包摂と排除」のなかの1本として、昨年のアメリカ史学会のシンポジウムで発表した内容をもとにまとめました。

少しこの論文の背景を説明しておくと、拙著『「日系アメリカ人」の歴史社会学』について歴史学系の方々からコメントをいただいたとき、Gary Gerstleのcivic nationalism論をあまりに無批判に受け入れているのではないか、という点を指摘されました。たしかに自分の理論枠組を構築する際に、Gerstleのnationalism論に依拠していた部分もあるため、至極もっともな指摘であったと思います。ただ、そのとき、社会史系の研究者のあいだでは「常識化」しているといっていい「国民化」批判やナショナリズム批判から抜け落ちてしまうものもあるのではとも感じました。そこで、この論文では、あえてアメリカのcivic nationalismに積極的にコミットした日系移民指導者の姿を通して、それを否定するのではなく、civicな理念が有するダイナミズムのほうに目を向け、その歴史的意味をちゃんと論じてみようと考えました。結局「国民化」してしまいました、という話ではなく、その「国民化」のプロセスになかに、それ自体を乗り越えるような可能性を見いだすこと、そして、その可能性がなぜ実現しなかったのかを考えること、そうした方向性のほうに、私としては魅力を感じたわけです。そのようなねらいが、この論文のなかで十分に発揮できているかは自信がありませんが・・・。

この論文は、私にとって『アメリカ史研究』では二本目の論文になります。前回、歴史学的な記述との違いに悪戦苦闘したということもあり、今回はリベンジのつもりで再トライしました。自分ではけっこう歴史学っぽいものになったかなと思っていましたが、先日、某氏に「やっぱり社会学の方って感じの論文ですよね」と言われてしまいました。ディシプリンの壁はなかなか厚く、高いようです。